大阪高等裁判所 昭和40年(う)1957号 判決
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〔判決理由〕論旨は、被告人には過失がない、として事実誤認を主張する。
よつて案ずるに、原判決挙示の各証拠によると、被告人は、昭和三九年三月一〇日、大型乗合自動車を運転し、午後八時三〇分頃、姫路市元町三丁目附近国道(有効幅員一一・七メートル、コンクリート舗装道路)の中央線の北側東行道路(中央線から道路北端まで四・七メートル)のほぼ中央附近を東進中、時速二〇ないし三〇キロメートルの速度で進行し、同時刻頃米田町二〇番地先附近にさしかかつたとき、前方左側マルフクホルモン店から出た岩佐武一(当時四四才)が小走りで右側へ横断しかけているのを前方八メートルの同店南方一・二メートルの路上に発見したので急ブレーキをかけ、ハンドルを右に切つたが間に合わず、同人に自車左前照灯附近を衝突させて同人を約四メートル前方(東方)にはね飛ばして転倒させたこと及び被告人は警音器を吹鳴しなかつたことが認められる。
右認定の事実によると、被告人は約八メートル前方に被害者を発見したのであるが、原判決は、被告人が左前方に対する注視不十分のまま漫然と進行したために被害者の動静の発見がややおくれ、被害者がマルフクホルモン店から出て一・二メートル南の地点に至るまでの動静を看取していない旨判示しているので、本件事故発生当時の現場の状況下において、さらに早期に被害者を発見することが可能であつたか否か、及び被告人が警音器を吹鳴するいとまがあつたか否かについて検討するに、原判決挙示の各証拠および当審裁判所の検証調書によると、本件事故現場は平坦直線の道路で見透しはよく、当時道路両側の店の照明などで路面はやや明るかつたことが認められるけれども、一方、マルフクホルモン店前西側に同店西隣の喫茶店「再会」の看板が立ててあり、マルフクホルモン店表出入口には三〇センチの腕木の先端にのれんが掛けられていたため、西方からは同店表入口の状況は見透しが困難であるうえ、本件事故は三月一〇日の午後八時三〇分頃に発生したものであつて、既に日は暮れてしまつていたことが認められるのであつて、これらの状況を綜合すると、当時西方からは被害者が右ホルモン店から出たときの動静を看取することができないか、または少くとも著しく困難な状況にあつたものと推認することができる。しかも、前記認定のごとく被害者は右ホルモン店から出るや、小走りで被告人の運転する自動車の前方に飛び出してきたものである。してみれば、被告人が被害者を発見したのは、既に被害者が右ホルモン店の一・二メートル南方の地点に来ていたときであつたとしても、それはむしろ当然のことであつて、それより以前に被害者を発見することは不可能であつたと思われる。したがつて、被告人には前方不注視によつて被害者の発見が遅れた過失があると断定することはできない。また、右のごとく被告人が被害者を発見したのは、わずか八米前方であり、しかも被害者は突然自動車の進路前方に走り出してきたのであるから、被告人が警音器を吹鳴するいとまのなかつたことも明らかであつて、被告人が警音器を吹鳴しなかつた点に過失を認めることもできない。
また、原判決は、被告人は危険回避の方向転換もしくは急制動を適確に操作しなかつた過失により、あわてて急ブレーキをかけ、ハンドルを右に切つたが、踏み込み不十分で間に合わなかつた。このことはスリツプ痕がついていなかつたことその他の状況から認められる旨判示している。
そこで先ず、ブレーキの踏み込みが不十分であつたか否かについて考えるに、被告人が本件事故直前時速二〇ないし三〇キロメートルで進行していたことは既に認定したとおりである。ところで原判決挙示の各証拠によると、本件事故発生直後現場道路に被告人の自動車のスリツプ痕がなかつたこと、乗客は一人も負傷しなかつたことが認められ、一見急制動の措置が不十分であつたかのごとく思われる。しかしながら、司法警察員作成の実況見分調書被告人の司法警察員に対する供述調書及び証人中村敬の原審公判廷における供述記載によれば、被告人が被害者を発見した地点から、本件自動車が停止した地点までの距離は九・一メートルであること及び当時車掌として乗車していた中村敬は、停車時、体が前方に傾斜したことが認められるところ、鑑定人赤松昌の鑑定書及び証人赤松昌の当審公判廷における供述によると、本件事故発生当時の本件自動車の状態とほぼ同一の状態の自動車が時速三〇キロメートルで進行している場合、運転者が危険事象を発見しブレーキ動作を開始してから車が停止するまでの距離(制動停止距離)は、車輪が回転(ロール)しながら停止した場合は一三・一五メートル、車輪が固着(ロツク)して完全な滑りの状態で停止した場合は一三・六八メートルであること、車輪が回転しながら停止した場合には、スリツプ痕が見えないことがあること、急停車のときは着席した乗客の上体は約三〇度前方に傾き、制動時のシヨツクは相当強く感じるが、車輪がロールして停止するときはロツクして停止するときよりも制動時のシヨツクは強いことが認められる。してみれば、本件自動車は被告人が被害者を発見してから、制動停止距離以下の距離で停止しているうえ、被告人は、制動停止距離もより短く、且つ、乗客に与える制動時のシヨツク、傷害等の防止にも適したロールの方法によつて急制動の操作をしたものと考えられないこともないので、被告人の急制動措置はむしろ乗合自動車運転手として適確であつたともいえるのである。ところ、原判決は、被告人の勘による時速三〇キロメートルは措信できず、従つて制動停止距離に関する赤松昌の鑑定結果は本件事案に援用できないし、また被害者を制動停止距離内で発見したものであると断じ得ない、と判示しているけれども、原判決自体、罪となるべき事実中では、時速を二〇ないし三〇キロメートルと認定しているのとも矛盾するし、原判決がその理由説明の根拠としている証人三村初夫の同人がホルモン店を出て本件自動車を西方に発見したときの距離に関する供述は、一〇〇メートルか一五〇メートル位と述べたり、警察で四、五十メートルと言つているとすれば、そのときそれ位と思つたのでしようと述べたり、あいまいであるうえ、通常、夜間は距離の目測を誤りやすいばかりでなく、走行中の自動車を飲酒後(同証人の証言)に見たものであることを考えると、三村初夫の右距離に関する司法巡査に対する供述調書の記載及び同証人の右証言を被告人に不利益に援用することは危険である。しかも原判決は時速二五キロメートルのとき一〇秒で七六・三四メートル進行することとなると説示しているが、これが誤算であることは明白であつて、計数上、時速二五キロメートルのときは一〇秒間で六九・四四メートル進行し、時速三〇キロメートルのときは八三・三三メートル進行することになるところ、仮りに三村初夫が当時、前記距離を四、五〇メートルと思つたとしても、真実は八〇メートルであつたかも知れないのであるから、被告人が捜査官に対し、また原審で一貫して述べている時速三〇キロメートルをたやすく排斥することは許されない。また仮りに、急制動直前の時速が二〇キロメートルであつたとしても、鑑定人赤松昌の鑑定書記載の数式にあてはめて計算すると、ロールの場合でも、…実制動距離となつて、実制動距離は二・三九メートルとなり、空走距離(運転手が危険事象を発見してブレーキ動作を開始してはいるが制動装置が未だ働かない間に自動車が進む距離)は右鑑定書の記載により時速三〇キロメートルの場合と異ならないものと考えられるので、七・七五メートルとすると、制動停止距離は一〇・一四メートルであると推計しうるところ、本件自動車は前記認定のように被告人が被害者を発見した地点から九・一メートル進行しただけで停止しているのであるから、制動停止距離内で停車したことになる。以上、いずれの点から考えても、被告人が急制動操作を適確に操作しなかつた過失があると断定することはできない。
次に、被告人の危険回避の方向転換の操作が適確でなかつたか否かについて検討するに、原判決挙示の各証拠によると、本件事故発生当時対向車はなかつたこと、及び本件自動車は右前部が中央線すれすれのところで停止したことが認められるので、被告人のハンドルの切りかたが不十分であつたのではないかと思われないこともない。しかしながら、右各証拠によると、被告人が被害者を発見してから、停車するまでの距離はわずか九・一メートルであるうえ、運転手が危険事象を発見してからハンドル操作を開始し、かじ取装置が働くまでの時間(空走時間)を考慮に入れると、右認定のごとき車の停止状態から被告人のハンドルの切りかたが適確でなかつたと断定することはできない。
以上、原判示のいずれの点についても被告人には過失を認めることができないので、最後に、被告人が本件事故現場附近を時速二〇ないし三〇キロメートルで大型乗合自動車を進行させていたことが、過失にならないかについて考えるに、司法警察員作成の実況見分調書によると、本件現場附近は制限時速が四〇キロメートルであることが認められるうえ、原判決挙示の各証拠によると、本件事故当時、本件現場附近は自動車の通行が比較的少なく、自転車及び歩行者の通行も殆んどなかつたことが認められるのであるから、二〇ないし三〇キロメートルの時速で大型乗合自動車を進行させても不当であるとは考えられない。もつとも、本件事故現場附近は店舗が多いので、人の出入りがあることは考えられるけれども、自動車運転手としては、何人も自動車のすぐ前を突然、道路の中央部に向つて走り出すような向うみずなことをしないものと信頼して運転することを許されるべきであると解する。何故ならば、もし、右のような者もあるかも知れないことを前提として運転しなければならないとすれば、自動車は市街地を常にきわめて低速力で進行しなければならないこととなり、その高速交通機関としての使命にそわない結果になるからである。これを要するに、被告人が本件事故直前、時速二〇ないし三〇キロメートルで大型乗合自動車を進行させた点に過失を認めることはできない。
してみれば、被告人には本件事故につき何らの過失をもこれを認めることができず、本件事故は専ら被害者の無暴な横断行為が原因となつて発生したものであつて、被告人にとつては不可抗力であつたというほかはない。
よつて、本件公訴事実は犯罪の証明がなく、無罪であるのにかかわらず、被告人に過失ありとして有罪の言渡をした原判決には事実の誤認があり、その誤認が判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決は破棄を免れない。論旨は理由がある。(中田勝三 佐古田英郎 荒石利雄)